

創造
「世の中に自分の技術力を問うてみたい」。
弱冠29才にして会社を立ち上げた男は、
わずか8年後に世界初となるミニショベルを開発し、
建機業界に旋風を巻き起こす。
時あたかも高度経済成長期のただ中、
TAKEUCHIは変わりゆく日本の大地に革新の一歩を記した。
弱冠29才にして会社を立ち上げた男は、
わずか8年後に世界初となるミニショベルを開発し、
建機業界に旋風を巻き起こす。
時あたかも高度経済成長期のただ中、
TAKEUCHIは変わりゆく日本の大地に革新の一歩を記した。

慧眼

全ての始まり
東京オリンピックを翌年に控えた1963年、坂城町にひとつの会社が誕生する。創業した竹内明雄は、某輸送機器メーカー直系の部品メーカーで若くして 工場長を任され、社長の右腕とも目されていた技術者だった。
だが、稀代の技術者にして経営者だった創業者本人に相見えたことが彼を変える。
--これから日本はますます発展する。
自分も独自の物作りがしたい、自分の技術力で勝負したい!
社長に直訴すること数年、ようやく独立が叶ったのは29才の時。餞としてもらった旋盤機械、そして6人の従業員とともに竹内製作所は船出するのである。
産声

「世界初」の誕生
全国で道路整備や宅地造成が急ピッチで進められていた’60年代。大型ショベルカーは普及していたものの、狭い場所の基礎工事は未だ人力に頼るしかなく困難を極めた。
建設土木会社から相談を受けた竹内は、試行錯誤の末、1971年に小回りの効く小型タイプのショベルカーを開発し、各地で好評を博す。
これこそが日本初となるミニショベルである。
この成功を機に、“建機業界にTAKEUCHIあり”と存在を知らしめることになった。
挑戦
世界初のミニショベルを携えて着々と歩みを進めていたTAKEUCHI。
その存在は大手建機メーカーの間でも注目されるようになっていた。
飛躍の道を模索していたTAKEUCHIは大手メーカーと接触し、OEM生産に踏み切るのである。
その存在は大手建機メーカーの間でも注目されるようになっていた。
飛躍の道を模索していたTAKEUCHIは大手メーカーと接触し、OEM生産に踏み切るのである。

助走

そこに需要はあった
大手ブランドの名を冠するOEM生産。それを請け負った背景には、自社の名前より、自社の技術が世に出て認められることの方が重要だという思いがあった。
OEM生産により量産態勢を確立し、営業・販売の様々なノウハウを吸収していったTAKEUCHIは、次のステージへ向け企業としてひと回り成長することとなる。
協調
創業から15年、企業としての土台を盤石にしていったTAKEUCHIが、次に目指したのは海外だ。
懇意にしていた大手機械メーカーの勧めもあり、まず北米に 拠点を作る。現地の展示会では卓越した性能と品質が大きな反響を呼び、TAKEUCHIの名は瞬く間に全米に知れ渡っていった。
懇意にしていた大手機械メーカーの勧めもあり、まず北米に 拠点を作る。現地の展示会では卓越した性能と品質が大きな反響を呼び、TAKEUCHIの名は瞬く間に全米に知れ渡っていった。

転生

ターゲットは欧米
79年のアメリカ進出を皮切りに、TAKEUCHIはさらに海外進出を加速し、現在では五大陸すべてに上陸を果たした。時に過酷な条件下で土地を拓き、時にエポックメーキングな現場にも立ち会った、
そのクオリティは世界各国で絶大な支持と信頼を勝ち得ている。

「言葉」よりも「想い」
展示会のみならず、海外の工事現場へも社長は自ら足を運ぶ。外国語は拙くとも、エンドユーザーの不満や要望を察知できるのは技術 者としての蓄積があればこそ。
即座の改良や新製品への反映は子会社や代理店、何よりユーザーとTAKE UCHIとの信頼の絆をより強固なものにしている。

グローバルスタンダードへ
‘89年ベルリンの壁崩壊。 その壁の解体に使われたのがTAKEUCHIの建機だ。狭く不安定な足場で縦横無尽に活躍する姿は優れた安定性と操作性を実証、
‘96年英国、2000年仏国進出の追い風となった。
’05年には中国へも進出。
今この瞬間も世界のどこかでTAKEUCHIは駆動している。
開花

建機の「ベンツ」
欧米での年間稼働時間が2000時間(日本国内の約2倍を超える過酷な使用条件を考慮に入れ、耐久性、居住性、安定性など、高い品質の製品を日本という地から送り出してきた。また、オーディオ、バックモニターなど従来の建機には無かったスペックをTAKEUCHIはいち早く搭載した。作業能力はもとより、乗る人の安全や快適さにも最善を尽くすことで手に入れた“建機のベンツ”という称号。
それは、自ら現場を巡り、働く人の苦労を熟知してきた社長の思い入れと あくなき探究心の結晶とも言えるものだ。

小さな巨人
全国で道路整備や宅地造成が急ピッチで進められていた’60年代。大型ショベルカーは普及していたものの、狭い場所の基礎工事は未だ人力に頼るしかなく困難を極めた。
建設土木会社から相談を受けた竹内は、試行錯誤の末、1971年に小回りの効く小型タイプのショベルカーを開発し、各地で好評を博す。
これこそが日本初となるミニショベルである。
この成功を機に、“建機業界にTAKEUCHIあり”と存在を知らしめることになった。

創立から50年余、決して順風満帆な時ばかりでは無かった。
だからこそTAKEUCHIは、自ら作る建機さながらに苦境を凌ぐ逞しさ、そして濃やかさを併せ持つ企業に発展したのだ。
故郷・坂城にあって、その視線の先には常に世界と未来がある。
だからこそTAKEUCHIは、自ら作る建機さながらに苦境を凌ぐ逞しさ、そして濃やかさを併せ持つ企業に発展したのだ。
故郷・坂城にあって、その視線の先には常に世界と未来がある。
使命

ユーザーが求めるものを
TAKEUCHIが支持され続ける理由。それは“今、ユーザーが何を求めているか”社長はじめ営業スタッフらが自ら出向いてリサーチし、ダイレクトに本社へフィードバックできるからだ。
改良・改善を厭わず、より安全で快適な製品を届けたいという企業姿勢は、地域や世代を超えた信頼関係に繋がっている。

これからも坂城とともに
近年、TAKEUCHIの実績と将来性を見込んで、他県自治体からの誘致話は後を絶たない。だが、自らの“坂城愛”、そして地元の人材を大事する思いから全て断ってきた。ここまで育ててくれたことへの恩返しは、何より地元の活性化と発展。
工場見学やインターンシップの受け入れなど積極的な活動もその熱意の現れなのだ。
未来

継承そして、さらなる進化
誕生から半世紀、パイオニアであるがゆえの苦難と歓喜の道を踏みしめ、建機メーカーとして堅固な根を下ろしたTAKEUCHI。ここに至る礎となったのは、創業者であり当代社長である竹内明雄の技術者魂と経営センス、そして尽きることのないアイディアとバイタリティだ。
⸺「真実は現場にある」その言葉が示す通り、徹底した現場主義が時代と顧客のニーズを的確に捉えた物作りを可能にし、時代の先を読む卓抜した経営手腕が企業としての成長と信用をもたらした。
そして今、カリスマ的存在だった社長のスキルや感性は、“TAKEUCHIイズム”となって次世代へ受け継がれようとしている。
それは、比類なき発想力は開発部に・・世界で培った交渉力は営業部に・・というように。 各部が担い、若い力と情熱でさらに進化させる、まさに“チーム TAKEUCHI”という発想だ。
建機業界のトップを走る自負と共に、TAKEUCHIイズムは彼らの胸に刻まれ、未来に向け飛躍していく。